2009年06月17日

中世欧州における攻城戦

城は城壁や堀を備え、城への侵入を困難にしている。そのため、攻撃側は強襲に先立だって、敵城の堀を埋め、城壁や城門に突破口を作り、また防備の人員を殺傷して減らすことで城の防御力の低下と主軍の進入路の確保を目的とするのである。

挑発するなどして守備兵を城外に誘い出す
火矢などで火をつける。
破城槌や投石機で城門や塔、城壁などを破壊する。
移動小舎を接近させて堀を埋めたり攻撃のための足場を築き、あるいは城壁直下にトンネルを掘って壁の自重による崩壊を誘う。
城壁に雲梯を立てて兵士を突入させ、内部から城門を開くなどして進入路を確保し、自軍を招き入れる
上記のような攻撃の際に、弓兵や投石兵、バリスタで城壁上や城内の敵兵を攻撃して作業中の味方を援護する。
中世末期には城壁基部の地盤に穴を掘り、火薬や燃焼した空気圧で城壁の崩壊を行なうこともあった
中世欧州では、大規模な軍隊の移動時に兵站の確保が充分に行なわれることは少なかったので、攻城側は城の周囲に留まって作戦を行なえる期間が短かった[出典 1]。

中世欧州の攻城兵器 [編集]
雲梯 - 攻城塔:はしごだけでは城壁の上から弓兵に射抜かれるので、覆いを備えた攻城塔となった
破城槌:矢からの防御に覆いとなる屋根(とおそらくは壁も)が備わるが、城壁上から降り注がれた熱湯、煮え油、溶解金属などからの防護能力には限界があった
投石機(カタパルトやオナガー、トレビュシェット):石だけでなく火を放つ可燃物や動物の死体、守備側兵士の死体、他の不衛生な物なども投げ入れた
スノーボード
ベジタリアニズム
キャラクター
絵画
甲殻類
潮干狩り
相撲
就学前教育
月経
緩歩動物
エイズ、HIV感染
信越地方
切り絵
鳥類
新婚旅行
盆栽
夜景
御節料理
カーナビゲーション
里山

バリスタ
テストゥド(Testudo)[3]:頑丈な屋根と片側の壁面、車輪を備えた長屋状の移動式小屋である。これらを多数作り城壁近くへ移動させて廊下、ギャラリー(Gallery)を形成する。兵士を城壁から放たれる矢や落下物から保護しながら城壁直下まで接近させ、地盤を掘るなどの破壊作業のための安全な環境を作る。堀を埋める材料を運んだりする事にも使われる

近代戦 [編集]
攻城戦や狭義の「兵糧攻め」ではないが、近代戦においては、第二次世界大戦中の拉孟・騰越包囲戦、バルジの戦いでのバストーニュ包囲戦、インパール作戦でのコヒマ包囲戦がそれに近い。例に挙げた内、攻囲側が勝利したのはハルトゥーム包囲戦と拉孟・騰越包囲戦である。コヒマ包囲戦の日本陸軍はイギリス軍の空輸作戦の前に屈し、やがてインパール作戦の破滅的な瓦解につながった。。

2009年05月31日

宋の兵制は傭兵制であり

兵士は全て衣食住を政府から支給される職業軍人であった。宋軍は大きく禁軍と廂軍に分かれる。禁軍は中央軍、廂軍は地方軍である。

唐末から五代にかけて藩鎮の持つ地方の軍事力は強大なものであった。これら藩鎮の兵士たちは中央で事が起こった際に節度使を押し立てて皇帝とし、兵士がそのまま禁軍となった。これを侍衛親軍と呼ぶ。この侍衛親軍は皇帝を擁立した功績から多くが驕慢になり、恩賞を約束されねば戦わない軍隊となり、軍内の老兵を整理することを許さなかった。このような状態を驕兵と呼ぶ。これに対して後周世宗は新たな禁軍である殿前軍を設置し、これを強化することで軍事力の強化と皇帝権の確立を狙った。この殿前軍の長官である都点検であったのが太祖である。
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太祖が即位すると節度使から兵権を剥奪し、残った兵士のうち強兵を引き抜いて禁軍に組み入れ、残った弱兵たちは廂軍として地方に残した。廂軍は実戦兵力としてはまず使われず、兵糧の運搬や土木工事などに使われ、老齢になっても解雇されなかった。廂軍には一つには他の仕事に就けない者を収容する福祉政策の意味合いと、無頼の徒を軍隊に収容することで治安維持的な意味合いがあった。

唐代では藩鎮の将帥と兵士たちの間に私的な繋がりが生じ、それが割拠の一つの原因となっていた。これに対して宋では軍の駐屯地と軍の司令官を数年毎に替える更戍制を行い、司令官と兵士と地方の間に心的結合の出来ないようにした。また一般に兵士には逃亡防止のために顔面に刺青が施されていたが、本来刺青は罪人に施されるものであり、宋においては「良鉄は釘にならず、良人は兵にならず」というように兵士の社会身分は著しく低いものとなった。これらの政策により中央に反抗する地方軍は存在しなくなったが、一方で軍の弱体化を招くことになり、遼・西夏との関係は常に守勢に回らざるを得なかった。

また禁軍・廂軍の他に現地の民衆により編成された自警団的な郷兵、辺境の異民族を軍隊に組み入れた蕃兵がある。郷兵は自らの郷里を守るということから士気が高く、蕃兵は精強であり、かつ両者とも維持費が安いことから重宝された。

税制は宋代を通じて唐・五代十国から引き継いで両税法が行なわれた。全国の戸を土地を持ち、税を納める戸である主戸、土地を持たぬ客戸に分類し(主戸客戸制)、主戸は五等戸制の下に、五等のランクに分類され、夏と秋に穀物を徴収された。しかし、現実に人々の重課になったのは、強制労働(実際にはしばしば銭による代納)である、職役(役)である。主戸のうち財力に富む一等戸・二等戸は職役を負担したが、この負担はたいへん重いもので、しばしば家計を圧迫・破綻させる要因となった。

中唐から晩唐にかけての唐帝国の衰退・滅亡、五代の騒乱という中国の混乱は東アジア世界全体にも大きな影響を及ぼし、勢力図が激変することになる。北方ではモンゴルからトルキスタンまでに広く勢力を張っていた遊牧ウイグル帝国が840年にキルギスによって滅亡。その間隙を縫って勢力を伸ばしてきたのが契丹である。西方では877年に吐蕃王朝が崩壊。青海地方ではタングートが勢力を伸ばす。南西では902年に南詔が滅亡。代わって大理国が興る。南では長く中国の支配下にあったベトナムが独立し、呉朝が興る。東では新羅の支配力が衰え、938年に高麗によって統一される。また渤海も国力を低下させ、926年に契丹により滅ぼされ、東丹国が作られる。日本でも935年に承平天慶の乱が起こり、武士の時代に入った。これらは当時の世界の中心であった唐帝国の冊封体制の崩壊が影響を及ぼしたと考えられる[注釈 4].

その後、宋が中国を再統一するが、新たに作られた国際秩序は唐を頂点とする冊封体制に対し、遼と宋が二つの頂点となった。

宋の立場で言えば、最も重要な相手は遼(契丹)で、北宋建国時から対立状態にあったが、澶淵の盟が結ばれて以降は概ね平穏に推移し、これが遼滅亡の直前まで続く。遼に次いで重要なのが西夏であり、前身のタングート時代より宋に対して侵攻を繰り返しており、遼とは逆に北宋滅亡まで安定的な関係を築くには至らなかった。このように北宋は建国より滅亡まで常に戦争状態にあり、その財政はそのほとんどを軍事費が常に占める戦時経済であった。王安石の改革が必要になった主たる原因はこれである。

2009年04月28日

ファシズムの台頭を舞台とした作品

「暗殺の森」(1970年、イタリア・フランス・西ドイツ合作映画):後に「ラストエンペラー」などで有名となった、イタリアのベルナルド・ベルトルッチ監督の出世作。原作はアルベルト・モラヴィアの小説“Il comformista”(同調者;邦訳「孤独な青年」)。大戦前夜の1938年を舞台に、反ファシズム活動を行う恩師の暗殺を命じられた大学講師の葛藤を描く。優柔不断なインテリ青年がファシズムに傾斜していく姿を通して、ファシズムの根が彼方にではなく、われわれの内部にあることを告発する作品として評価が高い。
「Vフォー・ヴェンデッタ」(2006年、アメリカ・ドイツ合作映画):近未来に起こった第3次世界大戦の後に、擬似ファシズム国家になった英国を舞台に、仮面を付けた"V"が独裁政治から国民を解放しようとする。物語の中の体制はファシズムに似ている。
「蝶の舌」(1999年、スペイン):スペイン・ファシズムの台頭を描いた作品。1936年のスペインの片田舎で、8歳の少年と民主派の老教師の交流を描く。少年は先生からさまざまなことを学び成長するが、内戦が始まり悲劇的な別れが待っていた。
スターリン期・コミンテルンの用語。社会民主主義とファシズムとを双生児と規定し、共産主義の党(コミンテルンの指導下にある党)はファシズムに対して戦う際に、社会民主主義勢力と一切協力してはならないと結論づけた。背景として「ドイツ社会民主党が第一次世界大戦への協力姿勢を示した」ことをレーニンが激しく批判していたことが意識され、「社会民主主義は必然的に反動化する」との理論構成によって社会ファシズム論は正当化された。

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この理論のもと1930年代前半のドイツ共産党はナチスに対しなんら有効な攻撃を行わなかったばかりか、ドイツ社会民主党を攻撃するうえでナチスと一致することもあった。労働者の戦線は分裂し、ナチスに対抗することはできなかった。結果として、社会ファシズム論はヒトラー政権の成立に有利になったといえる。

(「なんら攻撃を行わなかった」というより、ナチスの台頭以前に社会民主党による粛清で殲滅されていたというのが史実であるという意見もある。)

1935年、コミンテルンは第7回大会において、ドイツにおけるナチス政権成立を教訓にして、反ファシズム統一戦線の戦術をとることを決め、社会ファシズム論は放棄された。

2009年04月12日

シン (メソポタミア神話)

シン(Sin)は、古代メソポタミアで信仰された月の神(男神)。シンはアッカド語の名前でありシュメール語ではナンナ(Nanna)と呼ばれる。シュメール人の都市ウルの主神でもあり、アッカド時代になるとメソポタミア諸王の王女がウルのナンナ女祭司に任じらるようになり、また人名の一部としても用いられることが多くなっていった(アッシリア王センナケリブがよく知られる)。またウルと並んでハランも祭儀の中心であった。

エンリルの最初の子であり母はエンリルの配偶神ニンリル。配偶神はニンガルで、子は太陽神シャマシュと金星神イシュタル。シンボルは三日月で、三日月に似た角を持つ雄牛と深い結びつきを持つとされた。

メソポタミアにおいてシンは月を司り、大地と大気の神としても信仰されていた。その性質から「暦を司る神」とされ、同時に月に由来する神に多い農耕神としての側面を持ち合わせていたと考えられる。

ハンモ サイクロ ジャイル ダゴン ローツェ 夕立ち クフルト マーガ 白菜 エゴイ シプリン ヒート サテラ 黄昏 あくび ぞくげん スコール おきなれ プリスクール トーラス ブルー オートオオ レモンピー 天永 リュード フキ ギアシ ルクセン ジャイロ サイド ジェット ダックス フレア 四天王 マンゴー ピアニスト モヒカン ナビむつ デザイン キュー きつき ストップ じょうさい ヒヤシンス シュミナ リフネ メゾネット イング ダッシュ リング


また、「暦の神」としてのシンは「遠い日々の運命を決める」力を持っていたとされ、彼の練る計画を知った神はいないとされる。

2009年03月28日

性行為感染症

性行為感染症(せいこういかんせんしょう、英Sexually Transmitted Disease,Sexually Transmitted Infection)は、性行為によって感染する病気の総称。一般に性感染症、または医学的には英語の頭文字を取ってSTD/STIと呼ばれる事がある。
チルー オストメ ミモレ サイド ジャック プレクリ スコポフ きゅうてい スパイス ウフジ ラップ トーシュズ サイレン ノーカ キンセン チャイルド スター ホンコン デックス きゅう メトセク ルーキー バリヤー シュルレ フォトス フィブリン トリプタン ソユーズ ワゴン シェア すあわ ステージ ボケSEO ムルロ グルベド どふぇ ユニオ スマッ ブレテ アイス テーブル ファシズム 男船日本 未来地図 端玉アク シブシップ 長崎赤 ケイトウ モンゴ サイフォン

性行為(SEX以外でもディープキス、ペッティング、フェラチオ、クンニリングス、アナルセックス、道具を使った行為等も含める)によって感染する全ての感染症をさし、性行為が最も通常の感染様式であるものをいう。性行為の相手が、同性・異性は問わない。旧「性病予防法」に規定されていた性病よりも大きな概念である。

感染経路 [編集]
性行為感染症の原因となる病原体は体液(精液、膣液、血液など)の中に含まれ、おもに人体の粘膜(陰茎、膣、肛門、尿路)を通過して感染する。また、口腔、のど、気道、眼からも感染することがある。傷のない皮膚からの感染のリスクは限りなく低い。

疫学 [編集]

日本 [編集]
日本では、欧米先進諸国と異なり、特にHIVに関しては1990年代以降に急増傾向にある。

各疾患ごとに増加傾向は異なるが、若い世代を中心に性の開放化が大きく進んだ事に、性行為感染症の知識や性教育が追いついていない事が大きな要因といえる。また、かつては性行為感染症の存在や調査自体があまり知られておらず、近年になって性行為感染症が認知されるに従って、これまで見逃していた潜在的患者が発見されている事も、急増の原因である。

一般に「ピル飲めば生でHして大丈夫」というような言葉にもあるように性行為に対して「避妊」のみにしか知識が普及しておらず、「行為感染症の予防」という知識が著しく欠けている事が大きな問題でもある。

また欧米とは異なり、日本の性風俗店では、いわゆる「本番行為」以外の「素股」「フェラチオ」「アナルセックス」等が多く、「本番行為(陰茎の膣への挿入)」を行わない事で、ただ避妊さえすればよいという理由でコンドームを使用しないで直接陰部の接触を行うサービスが横行している事も、感染の拡大を招いているともいえる。つまり、精液や膣液などが陰部などの粘膜に直接付着することによる感染を防ぐことができず、感染のリスクを高めている。

欧米 [編集]
性の開放化が早期に起こった欧米先進諸国では、日本よりも早く性行為感染症の蔓延が問題化した。

そのため、現在の欧米では予防の観点から性教育を充実させ、小中学校時よりコンドームの重要性を重視して教育している。結果、欧米の若者の多くは避妊というよりも感染症予防としてコンドームを持っていることが普通ともなってきている[要出典]。欧米先進諸国では一般に性行為感染症は横這い、または減少傾向となっている。

ただ、性の開放化が早期に進んでいた欧米では、元々が性行為感染症が多く、現在でもそれはあまり変化していない。アメリカのテレビ番組では10代少女の4割がクラミジアに感染しているというアンケート結果が公表されたことがある。また、疾病管理センターでも思春期の少女の4人に1人が少なくとも性感染症のひとつにかかっているとあるという調査結果をまとめている。

livedoor ニュース - アメリカの少女に性感染症が蔓延! 10代の約4割がクラミジアなど
また、キリスト教系団体の中には、避妊行為をすること自体を教義に反すると考え、コンドームの使用を疑問視する動きもある。

疾患一覧 [編集]
感染経路はそれぞれ疾患ごとに異なるが、いずれも接触感染を基本としている。それぞれの感染経路は各疾患を参照。

ウイルス
単純ヘルペスウイルス(性器ヘルペス)
ヒト乳頭腫ウイルス(尖圭コンジローマ、子宮頚癌)
B型肝炎
C型肝炎(STDの定義に該当するか議論がある)
ヒト免疫不全ウイルス(HIV、エイズ)
成人T細胞白血病(HTLV)
サイトメガロウイルス感染症
伝染性軟属腫
細菌
梅毒
性器クラミジア感染症(鼠径リンパ肉芽腫症)
淋病(淋菌感染症)
軟性下疳
真菌
カンジダ、口腔カンジダ症
白癬
寄生虫、原虫
トリコモナス原虫による感染症
アメーバ赤痢
毛じらみ症
疥癬

2009年03月12日

ディオクレティアヌス宮殿

クロアチアの都市スプリトに残っている宮殿で、3世紀末から4世紀初頭にかけてディオクレティアヌス帝によって建てられたものである。

ディオクレティアヌスは、西暦305年5月1日に帝位を退いた後に隠棲しようと、巨大な宮殿を建てた。実際の建造は、彼が帝位を退く10年前の、295年から始められていた。それはダルマティアの皇帝属州州都サロナから6.5 km ほどにあたる、ダルマティアの海岸から伸びる短い半島の南側の湾に位置していた。その地域は海に向って緩やかに傾斜しており、典型的なカルスト地形で、石灰岩の尾根が東から西に走っていた。

中世が終わった頃には、西欧ではこの宮殿の存在そのものが実質的に分からなくなっていた。この状況が打破されたのは1764年のことである。この年に、フランス人の芸術家・古物収集家シャルル=ルイ・クレリソ(Charles-Louis Clérisseau)をはじめとする創案者たちの意向で宮殿の調査を行っていた、スコットランド人の新古典派様式建築家ロバート・アダムが、その成果を『ダルマティアのスパラトロにあるディオクレティアヌス帝の宮殿遺跡』(Ruins of the Palace of the Emperor Diocletian at Spalatro in Dalmatia, London)として公刊したのである。アダムにとっての宮殿は、新古典主義の新しい様式を生み出すための刺激になった[1]。そして、実測図の出版は、ヨーロッパの建築用語にディオクレティアヌス宮殿が持ちこまれる契機になった。

この宮殿は現在、他の重要な歴史的建造物群とともに、スプリトの中心市街にある。世界記念物基金は建物の完全性に関する調査や石・漆喰などの清掃・補修を含む保全計画に取り組んでおり、2009年中には完成させる予定でいる。

建築物
宮殿の平面図は西側、北側、東側のファサードからそれぞれ塔が突き出ており、不規則な長方形をしている。宮殿は豪奢な別邸の特質を備えている一方で、巨大な門や見張り塔の存在によって軍事施設の特質も混ぜ合わせている。宮殿は城壁に囲まれており、時には9000人以上を収容した。宮殿地下の一部は半円筒ヴォールト(barrel vault)を具えた石造建築物である。

南側のファサードのみは直接海に接するか、極めて海に近いため、無防備である。その上階にあるアーケード付き柱廊の精緻な建築上の組み立ては、より地味な他の3つのファサードとは一線を画している。それぞれの壁の中央につけられた堂々たる扉は、中庭に繋がっている。南の海に面した扉(Porta Aenea,「銅の門」)は、形式と寸法の面で他の3つよりも簡素で、皇帝が私的に海に向かう場合や必需品の納入の際に用いられた勝手口であったと推測されている。
キシラン ノート ローズ マッハ リボ デリバラ 田舎国 ゴマナ ゲート フォトモ ザンス カッコー コッチ チリン シャー タジーン メーカ ディング モード アップ クロゼ レイオ モラトリ ダイキリ サイリウム レセプト クオリア ロトロン シーラーズ プルマン タリフレ ハッチ カップ ブローシャー オレキシン タバーン ノード ビッシング ヒットラー タッチ きくま 深呼吸 ゾディア はつう パラコート マスコ 和銅 しちの トラック ビヨウ

デザインは別邸の様式にも城塞の様式にも起源を持つが、この二重性は内装にもはっきりと表れている。横に走る道(decumanus, デクマヌス)は、東門(Porta argentea,「銀の門」)と西門(Porta ferrea,「鉄の門」)に通じており、建造物群を二分している。南半分はより豪奢な建造物群で、皇帝の公的・私的な各居住区画や宗教施設が置かれている。 皇帝の居住区画は海沿いにあるが、地面でなく土台になる構造物の上に建てられている。これは、傾斜した地面が高さに著しい差をもたらすことから、調整する必要があったためである。土台部分は何世紀にも渡りゴミで埋められてしまっていたが、保存状態は良好で、その上にあった当時の部屋割りがどのようなものであったかを伝えてくれる。

周柱式(Peristyle)と呼ばれる素晴らしい中庭は、皇帝の居住区画への北面の通り道にもなっている。同時に東ではディオクレティアヌス廟(現・聖ドミヌス大聖堂)への通り道に、西では3つの神殿(2つは現存しないが、旧ユピテル神殿は現在洗礼堂になっている)への通り道にも、それぞれなっていた。

宮殿の北半分は、北門(Porta aurea,「黄金の門」)から中庭へと南北に走る道(cardo, カルド)によって二分されている。これらの区画の保存状況は余り良くないが、一般には、兵士や召使たちの居住区画であったと考えられている。どちらの区画も通りに囲まれている。また、外壁沿いに長方形の建物が並んでいるが、それらは貯蔵庫であったと考えられている。

宮殿は地元の白い石灰岩や高品質の大理石で建てられた。大理石の大半はブラチ島の石切り場から、凝灰岩の大半は近隣の河床からもたらされ、煉瓦の大半はサロナ製である。エジプトの花崗岩の円柱やスフィンクスなどのように、装飾に用いられた材質には輸入されたものもある。また、護岸やいくつかの柱頭に用いられた良質の大理石は、プロコネソス(Proconnesos)製である。

水利
宮殿の水は、サロナ近くのJadro川から引かれていた。スプリトからサロナへの道沿いには、当時のローマ水道の遺跡を見ることができる。この遺跡は19世紀に大々的に修復されたものである。

2009年02月24日

神経科学

神経科学(しんけいかがく、Neuroscience)とは、神経系に関する研究を行う自然科学の一分野である。研究の対象として、神経系の構造、機能、発達、遺伝学、生化学、生理学、薬理学および病理学などがある。従来、この分野は生物学の一部門とみなされていた。しかし、近年になって生物学のみならず心理学、コンピュータ科学、統計学、物理学、医学など多様な学問分野からの注目を集めるようになった。神経科学者の用いる研究手法は近年大幅に増加しており、単一の神経細胞やそれらを構成する物質の組成・動態を調べるものから、思考中の脳内の活動を可視化する技術まで多岐に渡る。
マルバタ クロスレ シュール しばざくら アスク たいざん ロスカ チーズ 白爵南瓜 モルガ ユーボ 冬の星座 ライオン いろはに ピーク ハスカ リッペ リーズ ダイヤ 雪の駅 マネタ ファース グラス おくやま スピンオフ スカッド レンジャー レジスタ バルキー 寄居かぶ メキシコ へきぎょく ダージジ パサク はま スティン つるむら 京野菜 コリンズ プール ギミッ デカル マンネリ ハイガイド トークッシ ロンティー サイトバラ メガ最適 ミズム どうちゃく

神経科学は脳と心の研究の最先端に位置する。神経系の研究は、人間がどのように外界を知覚し、またそれと相互作用するのかを理解するための基盤となりつつある。

神経系は神経細胞のネットワークとそれをサポートする細胞群(グリア細胞など)から成る。神経細胞はその集合として機能的な回路を形成しており、個々の回路は個体の行動やふるまいに必要な特定の機能を担うと考えられている。このため、神経科学は様々な異なるレベルでの研究が可能であり、分子レベルから細胞、システム、また認知機能のレベルまで多様な研究が行われている。

分子レベルにおける神経科学の研究対象には、個々の細胞がどのように分子シグナルを発現しまた反応するか、あるいはどのような分子シグナルによって軸索がその複雑な接続パターンを形成するか、などがある。このレベルでは、分子生物学や遺伝学に由来する研究手法が応用され、神経細胞がどのように発達し死んでいくか、遺伝子の発現がどのように細胞の生物的な機能に影響するのかが調べられている。

細胞レベルにおいては、その基本的な研究対象として神経細胞が生理学的また電気化学的にどのように信号処理を行っているのか、そのメカニズムを探ることが挙げられる。細胞内の樹状突起や細胞体、軸索における信号処理や、また神経伝達物質や電気的なチャネルを通じて他の細胞から伝わった信号が細胞内でどのように処理されるのかについての研究が行われている。
システムレベルにおいての研究では、神経回路が解剖学的また生理学的にどうやって形成されるか、またそれらがどのように働くことで反射や知覚、感覚系の統合、運動制御、学習や記憶などの生理学的な機能が実現されているのかが研究の対象となっている。別の言い方をすれば、システム神経科学者は動物のふるまい・行動を生み出す神経基盤、またそのメカニズムを探ろうとしている。たとえば、システムレベルの研究ではそれぞれ個々の知覚や運動様式、あるいはそれらに共通するメカニズムを研究対象とする:視覚はどのように働いているのか? 鳥はどうやって新しい歌を覚えるのか? コウモリは超音波を用いてどのように自分の位置を知ることが出来るのか? 神経系はどうやって情報をコードしているのか?

認知レベルにおいては、神経回路がどのように心理・認知機能を生み出すのかが研究の対象となっている。近年、ニューロイメージング(例:fMRI、ポジトロン断層法 (PET)、単一光子放射断層撮影 (SPECT)、近赤外線分光法 (NIRS) )や電気生理学、ヒトの遺伝子解析などの強力な研究手段が発達してきたことにより、神経科学者(特にこのレベルの科学者を認知脳科学者とも言う)はヒトの認知や感情などのより抽象的な機能がどのような神経回路によって担われているかということについて研究を行うことが出来るようになった。従来は科学の枠組みを超えていると考えられてきた多くの精神的なプロセスが神経活動と強固に結びついていることが解明されつつある。

最近の傾向として、神経科学は社会科学の諸分野とも関連を持ちはじめ、新たな学際分野として神経経済学、決定理論、社会神経科学などが発展しつつある。これらの分野は、脳と社会環境の相互作用などのより複雑な問題を扱う。

神経学 (Neurology) や精神医学 (Psychiatry) は医学上の専門分野であり、学究的な研究の世界では、特に疾病を対象とした神経科学の一分野とみなされている。これらの単語はまた臨床医学上の分類でもある。神経学は脳梗塞や筋萎縮性側索硬化症 (ALS) などの中枢及び末梢神経系における疾病を扱うのに対し、精神医学は主に精神障害を対象とする。両者の境界は近年ぼやけてきており、どちらを専門とする医師も通常は両方の訓練を受ける。神経学も精神医学も神経科学の基礎研究に深く関与し、また影響を受けている。

神経科学の主な研究分野
現在の神経科学研究は非常に大雑把にまとめると以下のように分類することが出来る。この分類は、実験対象とそのスケール、また研究手法を元にしたものである。個々の神経科学者は、しばしばこれらのうちの複数の領域をまたいで研究を行っている。

領域 主な研究対象と考え方 実験的・理論的研究手法
分子及び細胞神経科学 イオンチャネル、シナプス、活動電位、神経伝達物質、神経免疫学 PCR、免疫組織化学、パッチクランプ法、分子クローニング、遺伝子ノックアウト、生化学アッセイ、連鎖解析、カルシウムイメージング、2光子顕微鏡、高速液体クロマトグラフィー (HPLC)
システム神経科学 感覚(視覚、聴覚、嗅覚、味覚、体性感覚)、パターン認識、感覚統合、神経コーディング、痛み、自発および誘発電位、色覚、運動系、睡眠、覚醒、恒常性、運動学習、注意、遊び 単一細胞電位記録、内因性信号イメージング、微小刺激法、電位感受性色素、fMRI、パッチクランプ、ゲノミクス、覚醒動物の訓練、局所電位、ROC、皮質コーディング、カルシウムイメージング、2光子顕微鏡
認知神経科学 注意、行動遺伝学、意思決定、感情、言語、記憶、動機付け、認知、性的行動、社会神経科学 サイコメトリックス、脳波 (EEG)、MEG、fMRI、ポジトロン断層法 (PET)、SPECT、単一細胞電位記録
発達神経科学 軸索誘導、神経堤、成長因子、成長錐、神経筋接合、細胞増殖、細胞分化、アポトーシス、シナプス形成、運動分化、傷害と回復 アフリカツメガエル、たんぱく質化学、ゲノミクス、ショウジョウバエ、Hox遺伝子
行動神経科学 生物心理学、概日周期、神経内分泌学、薬/アルコールの作用 動物モデル、in-situ ハイブリダイゼーション、fMRI、免疫組織染色、機能的ゲノミクス、PET、EEG、MEG
計算および理論神経科学 ホジキン・ハックスリーモデル、ニューラルネットワーク、パターン認識、ヘブ学習、自己組織化 マルコフ鎖モンテカルロ法、統計学、偏微分法、NEURONシミュレータ
疾病と加齢の神経科学 末梢神経障害、脊椎損傷、自律神経系、鬱、不安、パーキンソン病、依存症、記憶傷害 臨床実験、神経薬理学、脳深部刺激、脳神経外科
神経工学 脳・コンピュータインターフェース、ニューロプロステーシス

2009年02月08日

金完燮(キム・ワンソプ、1963年-)

金完燮(キム・ワンソプ、1963年-)韓国人評論家・作家。光州広域市生まれ。サレジオ高校?ソウル大学卒。
フェルト オレキ マッチ キャム プロポ オオセンナ パドルボ ダカー 国道18号線 ストー ヤン サンゴ ウェー ジグラート ないえ ショルダ イチゴ マリネ シュラフ デュポン ジェイペグ 古時計 スペクト ビージ レベル ゲッケイ カーン マエスト ツルウ オギジ レアメ スキーマ ネオジム ラズライ トリトマ ビレイ きあか スフィン レザー ジャムウ ファイ ファクト オキナグ ハイクラ ケフェウ ペクシ スノー チェンジ スケイ ダカール

1980年‐光州民主化運動(→光州事件)に市民軍として参加し、全羅道庁に篭城。のちに、国家偉功者として顕彰される。
1982年‐ソウル大学物理学部に入学
1989年‐雑誌編集記者になる
1995年‐「娼婦論」出版、韓国でベストセラーとなる
1996年‐オーストラリアに移住
1998年‐韓国に帰国。『コスタク新聞』を創刊、編集主幹になる
1999年‐親日関連著作で名誉毀損罪で有罪となる
2002年‐日本で『親日派のための弁明』が出版される
2003年2月14日‐日帝の韓国支配と明成皇后暗殺を美化する本を書き、インターネットに関連の文章を掲載した容疑でソウル高等裁判所から700万ウォンの罰金刑を命じられる
2003年11月‐過去史真相究明のための国会公聴会に参加するが傍聴人から暴行される
2004年7月27日‐金九の名誉を毀損したとしてソウル高等検察庁に起訴される
2004年10月‐親日著作をめぐる裁判の出廷時に殺人犯朴琦?から暴行を受け負傷
2005年2月22日 - 2月15日に金完燮がインターネット上に載せた文章を読んだ金乙東(「青山里戦闘」の金佐鎮の孫)に、名誉毀損罪で告訴される
2005年9月2日 -慰安婦や歴史上の人物を評論したことにより子孫の名誉を毀損したなどとして9600万ウォンの賠償をソウル中央地裁から命じられる[1]
2006年5月31日 -金完燮への誹謗中傷は独島を日本に返せなどと自ら誘発したので不起訴処分とするとソウル中央地方検察庁が発表[2]

主張と論争

慰安婦
日本は海外遠征のときに慰安婦を送ることによって軍人と現地住民に配慮しており、侵略軍ではなく解放軍により近い証拠であり、日本軍のヒューマニズムを象徴する証拠として再評価されなければならないと述べている。これに対し、ソウル中央地裁から日本軍慰安婦被害者6人にそれぞれ600万ウォン払うよう命じられる。

閔妃 (明成皇后)
明成皇后は朝鮮を滅ぼした亡国の元凶であり、西太后と肩を並べる人物と述べている。これに対し、ソウル中央地裁から明成皇后遺族らにそれぞれ1000万ウォン払うよう命じられる。

安重根・金九
安重根は守旧反動派の凶悪犯であり、日本人が伊藤博文を日本の国父と考えず、安重根を仇すら考えていないことが理解できないと述べ、金九については生まれつきの殺人鬼だと思わずにはいられないと述べている。安重根と金九について、韓国の異常な反日教育が作りだした偽の偉人に思えてならないと述べている。これに対し、ソウル高等検察庁は、虚偽の事実を流布し金九の名誉を毀損したとして起訴した。

竹島問題
「良心のない大韓民国! 独島(竹島)は日本に返してやれ」というコラムをインターネット上に掲載した。また、コラムに対して脅迫するコメントなどを書き込んだ1000人以上を訴えるが、ソウル中央地方検察庁は、金完燮が社会通念を逸脱する内容の文章を掲載し、自ら中傷や非難を誘発した面があり、それに対する書き込みは脅迫でなく叱責と解釈されるとし、不起訴処分とした。

安全保障
日本は再武装して、日韓台・ASEANによる東アジア安保同盟の創設するべきだと提言している。

『親日派のための弁明』について
『親日派のための弁明』は、戦前の日本による朝鮮統治について評価、肯定的な見解を述べた評論で、当初は韓国で販売されたが、本の内容が問題視され、青少年有害図書に指定され、金完燮は逮捕された。

日本では、草思社から日本語訳が販売された。販売されると直後に反響を呼び、歴史書としては異例の40万部のベストセラーとなった。2004年11月に扶桑社から文庫本も販売。同時期に『親日派のための弁明2』の日本語訳も販売された。

また、本人は日本での出版を機に来日することを考えていたが、本人の著書によると、 『パスポートの更新に応じてくれないと』いう事から、事実上の出国禁止処分になっている模様である。

2009年01月23日

ギンザケ

ギンザケ Oncorhynchus kisutsh (銀鮭、英名:Coho salmon, Silver salmon)は、サケ目サケ科に属する魚。天然では北部太平洋地域で産する鮭で、養殖物では日本・チリで生産されている。外観は白鮭に似た鮭であるが、肌目が銀色で背部から尾にかけて小さな黒点を有することが特徴。

利用法
おもにシロザケやベニザケの代用として昭和中頃より食用に用いられる。養殖の普及と成長の早さから比較的安価であるにもかかわらず脂がのっていて美味なため、塩鮭のほか鮭の切り身やコンビニ用のおにぎりなどによく用いられる。

飼育方法
淡水でも終生飼育が可能である。水温は18度以下に保ち、溶存酸素量を高めにし、定期的に換水をすることに注意すれば、これといって特に気をつけることは無い。 餌は、餌付けが可能であれば、大型熱帯魚用の人工飼料で十分である。

マスノスケ Oncorhynchus tshawytscha (鱒の介、英名:Chinook salmon)は、サケ目サケ科に属する魚。他に、キングサーモン(King salmon) の名で知られる。

キングサーモン以外の別名にはスケ(介)・スケマス(介鱒)・オオスケ(大介)などがある。標準的な和名であるマスノスケやこれらの名称に含まれる「スケ」とは、国司の四等官のうち次官である介(すけ)を意味する。現地赴任する国司のうちの官位筆頭者で任国で強権を振るった受領は次官の介が多く、普通のサケ(シロザケ)やマス(サクラマス)よりも巨大なこの種を、サケやマスの親分格の存在と看做し、国衙に君臨する介に例えたものである。

生態
アラスカからカムチャツカ半島にかけて、北太平洋を中心にオホーツク海、日本海北部などに棲息。日本国内ではロシアに回帰する一部の個体が、主に北海道の太平洋沿岸で漁獲されるものの、数は多くない。尚、国内には恒常的な産卵場所となる河川は存在しないが、東北地方以北の河川で捕獲された例がある。孵化後、海洋で1?5年ほど生活し、多くの個体は4?6年で成熟。その後は産卵のため、再び生まれ育った川を目指して遡上する。また、アラスカ産の個体の中には、川に入ってから産卵場所となる上流にたどり着くまで、遡上する距離が1,000kmを超えるものも存在する。

タイヘイヨウサケ属の魚はサケ(シロザケ)、ベニザケ、カラフトマスのような動物プランクトンを主に食べて育つ種と、サクラマス、ギンザケのように他の魚類を主に捕食する種に大別されるが、マスノスケは同属の中でも魚食性の代表格で、成魚はニシン、イカナゴなどを捕食する。食物連鎖の上で高位にあることもあり、プランクトン食のサケ類と比べて資源量ははるかに少ない。

いわゆるサケ類の魚の中では、北海道に生息するイトウと並んで最大級の大きさを誇るが(大きなものでは体長が1.47m、体重は60kg近くに達するものも存在する)、通常漁獲される個体は概ね体長80?90cm、体重は5?20kg程度である。体色は、背面は黒色点が散在する青緑色、腹部は銀白色をしている。尾鰭には銀色の放射条と黒色斑があることで他のサケ・マスと区別できる。また体に対する目の大きさも、他のサケ・マス類と比較してやや小さめである。
しょうや ムンバ イルラ 永遠の約束 ブースター サルフ 享禄 きんちゃく パンダル マネタリ アップ アート フラゲ ニュース 星かげ 月の宮 スタジ 野の花 リミット トラック 日本海 ケーソ ブラワサ じょうるり レビュー 未来世紀 ビッドレ オーバ ストーンカメ 女峰 ブッファ シャリン セイシェル ファイ シング スチーム ティグ バトル ストップ レーダー オーパーツ ブイエ デデリ ギブアップ ピラー 時計台 タネソウ サーチカヤ タイミ レジュ

用途
本種はサケ類の中でも特に脂肪分が多く、美味とされる。国内で流通するものの多くはアラスカやロシアなどからの輸入もの(主に海中で養殖された個体)であり、日本産は少ない。主な用途は缶詰加工、塩漬けの切り身(焼き魚用)、燻製(スモークサーモン)、刺身など。また卵も他のサケ同様、イクラなどに加工される。尚、鮮魚店などでは「キングサーモン」の名称で販売されていることが多いが、別種であるタイセイヨウサケ(アトランティックサーモン)が同じ名称で並べられている場合も多い。

ベニザケ (紅鮭、学名:Oncorhynchus nerka 英名:Sockeye salmon, Red salmon)は、サケ目サケ科に属する魚。英読みのままソッカイともよばれる。陸封型(一生を淡水で過ごす)の個体はヒメマスと呼ばれる。

降海型の個体は千島列島・カムチャツカ半島からカリフォルニア州以北の北太平洋・ベーリング海・オホーツク海に棲息。日本では北海道にベニザケの陸封型であるヒメマスが分布し、本州にも移植されているが、降海型のベニザケは分布していない。しかし北海道の安平川水系美々川などでは国産のベニザケを回帰させようと試験的な放流が行われ、最高で約5,000尾が回帰した。

体長は50 cm 程度(大きな個体では70 cm 以上に達する)。体色は、海洋生活期は銀白色で腹は白みがかっており、成熟するにつれ、オス・メスともに、頭部を除く全身に婚姻色である紅色が発現し、遡上前後の個体は鮮やかな紅色に染まる。メスはやや退色することが多い。また、産卵期のオスは、背部がラクダのコブのように盛り上がり、カラフトマスに近い体形となる。

他のサケ類の魚とは異なり、河川の上流で生まれた個体は途中の湖などで1年から数年ほど過ごし、その後海へと向かう。そのため、産卵・繁殖するための河川には途中に湖沼がある場合が多い。生まれた河川に戻る母川回帰性はサケ類中でも強く、生まれた支流まで正確に突き止めて遡上する。成熟にかかる期間は3?4年ほどで、7月?12月に産卵のため生まれ育った河川へと遡上する。海洋での主な餌は動物プランクトンで、特にコペポーダやオキアミ類などのプランクトン性の甲殻類を中心に摂食するが、アラスカ湾ではヒメドスイカなどのマイクロ・ネクトンもよく摂餌する。サケ類の中ではプランクトンを漉し取る鰓耙の数は突出して多い。

用途
本種は他のサケ類同様、重要な水産資源とされる。日本の市場に並ぶ個体は、主にロシアやアラスカなどからの輸入物が中心となっている。主な用途は塩鮭、またマスノスケと同様、燻製(スモークサーモン)などに加工され、ルイベにするのもよい。特に塩蔵品はサケ類の中でも屈指の美味と言われている。

2009年01月16日

西軍を駆逐して皇室と将軍義政

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開戦当初は東軍が優勢であった。内裏や花の御所周辺から西軍を駆逐して皇室と将軍義政を確保し義政の支持を受けて「官軍」と号したことに加え、細川氏と支持者の領国が畿内周辺に集中していたことが有利に働いたからである。しかし、月には細川領の丹波国を制圧した山名軍8万が上洛し、8月には周防から大内政弘が四国の河野通春ら7ヶ国の軍勢と水軍を率いて入京したため西軍が勢力を回復した。激戦となった相国寺の戦いは両軍に多くの死傷者を出したが、勝敗を決するには至らなかった。

応仁元年8月29日(9月27日)、突然、義視が東軍を出奔して伊勢国の北畠教具を頼った。義視の出奔は武衛騒動と文正の政変で追放されていた伊勢貞親が義政に呼び戻されて復権したことが一因とされているが、このころ義政や後見人の勝元が義視の廃嫡と義尚の将軍職就任に傾いたことも大きな原因であったと見られている。約束に反して将軍職を譲らない義政と義視の将軍就任のために積極的に動かない後見人の勝元、富子に見守られ僧門に入ることもなく成長して行く義尚。義視は、義尚が誕生した時より幕府に身の置き場所をなくしていたのである。この足利将軍家の家督問題が混乱に拍車をかけ、応仁の乱の長期化にもつながった。

その後、しばらく伊勢国に滞在した義視は勝元や義政に説得されて東軍に帰陣するが、再度出奔して比叡山に登った。義尚擁立に転じた勝元が、義視を御所から事実上追放したのである。11月23日(12月19日)、西軍は比叡山に使いを出して義視を迎え入れて“新将軍”に奉ると幕府の体裁を整えて東軍に対抗した。西軍は後南朝勢力にも協力を呼びかけた。

対立構図のねじれ、自己の利に従って離散集合をくり返す諸勢力。このような状況下で身を賭して戦いに貢献しようとする者は少なく、東西両軍の戦いは膠着状態に陥った。東軍の足軽大将・骨皮道賢が後方攪乱としてゲリラ戦を試みて名を上げたが彼らは盗賊や凶悪人を多く含んだ無法者の集団に近く、戦局を打開することはできなかった。

文明元年(1469年)になると大内氏の重臣で文武両道の名将として知られた益田兼堯が石見国で離反し、九州の大友親繁・少弐頼忠とともに大内教幸を擁して西軍方の大内領に侵攻した。この動きは鎮圧されたものの、文明3年(1471年)には守護代でありながら西軍の主力となっていた朝倉孝景が義政自身による越前守護職補任をうけて東軍側に寝返った。

長引く戦乱と盗賊の跋扈によって何度も放火された京都の市街地は焼け野原と化して荒廃した。さらに上洛していた守護大名の領国にまで戦乱が拡大し、諸大名は京都での戦いに専念できなくなった。かつて大義名分に掲げられていたはずの、守護大名たちが獲得を目指していた幕府権力そのものも著しく失墜したため、もはや獲得するものは何もなかったのである。

戦乱の終息
こうして応仁の乱は大義名分を失い、東西両軍の間には厭戦気分が漂うようになる。

文明5年(1473年)になると3月18日(4月15日)に宗全が、5月11日(6月6日)に勝元が相次いで死去し、12月19日(1474年1月7日)には義政が義尚に将軍職を譲って隠居した。文明6年4月3日(4月19日)、宗全の子山名政豊と勝元の子細川政元の間に和睦が成立した。

その後も東軍は畠山政長・赤松政則、西軍は畠山義就・大内政弘を中心に惰性的な小競り合いを続けていたが文明9年11月11日(1477年12月16日)に大内政弘が周防国に撤収したことによって西軍は事実上解体し、京都での戦闘は収束した。その9日後、幕府によって「天下静謐」の祝宴が催され11年に及ぶ大乱の幕が降ろされた。

この戦乱は延べ数十万の兵士が都に集結し、11年にも渡って戦闘が続いたにも関わらず主だった将が戦死することもなく、惰性的に争いを続けてきた挙句、勝敗のつかないまま和睦成立と言う形でしか決着はつかなかった。義政が義尚に将軍職を譲ったことは、将軍自らがその職務を放棄した事を意味した。大内政弘が撤退したのも、領土の安堵を約束させるために日野冨子に政弘が賄賂を贈ったからこそできたことであった。西軍の解体はわずか1日で終わったと伝えられている。